今回ダニー・トーマスの経歴を調べてみると、彼が設立に尽力したといわれる病院が“セント・ジュード小児研究病院”であることを知って驚きました。セント・ジュード病院といえば小児の血液疾患や腫瘍性疾患を専門とする医師のなかでは知らない者がいないといっていい病院です。現在小児の悪性疾患で最も頻度の高い白血病の治療が格段に進歩し、生存率が改善したことの裏には、この病院での多くの研究が大きな力となっています。コメディアンであるダニーがなぜこんな病院を創ることとなったのか。それにはやはりドラマチックな物語がありました。
ダニー・トーマスは1914年、米国のミシガン州の町で、レバノンからの移民の家にうまれました。若いころはラジオで歌ったり、ナイトクラブの司会やコメディアンをして暮らしていましたが、決して裕福とは言えず、自分の未来に希望を見出せずにいました。
そんな彼がある時デトロイトの教会の
聖ユダ(St. Jude ;キリストの十二使徒のひとり)の像の前にひざまずき、「私に生きる道をお示しください」と祈りました。するとそのすぐ後に、彼の祈りが聞き届けられたのか、シカゴでの仕事が見つかり、彼は家族とともにシカゴへ移り住んだのです(1938年ころ)。
それから数年後、彼に再び転機が訪れました。再びダニーは聖ユダに祈りを捧げ、そして「いつの日か聖ユダのための聖堂をたてる」ことを誓いました。
その後数年間で、ダニーはラジオやテレビで自分の番組を持つようになり、1940年代にはクラブや劇場(映画)での仕事を通して国際的にも名を知られるエンターテナーになりました。
有名になった彼は、それでも聖ユダとの約束を忘れませんでした。1950年代になりダニーは友人と話し合いながら、ユダとの誓いを果たすにはどのような方法がいいかを話し合いました。こうして徐々に、小児病院を建設するというアイデアが形作られていきました。
1955年にはダニーと、彼の考えに賛同するメンフィス(テネシー州、米国)の実業家のグループが難病の子供達を救うために献身的なはたらきをする独創的な病院を創ることを承諾し、資金集めを始めました。
実業家たちはそれぞれの地域の募金活動を行い、ダニーは多くの著名なエンターティナーたちをメンフィスへよんでチャリティー公演を行ったり、妻のローズマリーとともに米国中を車で東奔西走して寄付を集めました。こうして後にセント・ジュード(聖ユダ)小児研究病院となる施設の建設資金は集められましたが、さらに病院を運営していくためには多くの継続的な資金が必要となります。
そこでダニーは、自分の祖先もアラビア系の移民であることから、アラビア系アメリカ人のコミュニティーへ協力を求めました。
アラビア系アメリカ人の人たちは、かつて自分達の祖先が合衆国から与えられた自由の恩恵に報いるために、感謝の気持ちを形にするべきだと信じており、そのためには聖ユダへの奉仕の活動はすばらしいことだと感じていました。
1957年、アラビア系アメリカ人の代表者たち100人がシカゴに集まりALSAC(American Lebanese Syrian Associated Charities)というNGOを組織しました。この組織はメンフィスに本部を置き、全米各地に支部を持って病院のための募金運動を唯一の目的として活動し、年間に数百万ドルを集めています。
こうしてダニー・トーマスの夢である“セント・ジュード小児研究病院”は1962年、テネシー州メンフィスに開院しました。そして現在では、子供の難病の治療と研究における世界第1級の施設として認められています。
同院では現在までに米国全土はもとより60ヶ国以上の国からの子供達を治療しています。身寄りのない子供、経済的に恵まれない子供の入院に際しては、保険が効かないような経費に関して前述のALSACがそのすべてを負担しています。
ダニーは自分の夢が成し遂げられ、世界中の不治の病に悩む子供達の希望のともしびとなることを見届けた後、1991年になくなりました。現在彼は、彼の妻とともに、病院の敷地内にあるメモリアルガーデンに眠っています。
ダニー・トーマスがいなくなったいまも、彼の夢は生き続けているのです。
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